曹洞宗の尼僧、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…
【生かされているということ】
生涯を愛の教育にかけられた東井義雄先生から、こんなお話を聞きました。
夜遅くに電話が入りました。
こんな夜中に誰が電話をくれたかと、受話器をとってみると、男の方が切羽詰まった声で、「世の中の人がみんな私を見捨てた。裏切った。生きてゆく勇気がなくなったから、今から首をつって死のうと思う。
けれど、一つだけ気になることがある。南無阿弥陀仏と唱えて死んだら救ってもらえるか」というのです。
東井先生はおっしゃいました。
「待ってください。あなたの気まぐれな南無阿弥陀仏ぐらいで救われるもんですか。そんなことより、あなたはまわり中が見捨てた、裏切ったというけれど、あなた自身が自分を裏切り、見捨てて死のうとしているじゃないか。
その間も、あなたを見捨てずに、呼びかけ通しに呼びかけ、働き通しに働きかけていてくださる、その方のお声が聞こえないか」と。
「そんな声、どこにも聞こえやしない」という電話の主に対して、東井先生はさらにおっしゃいました。
「眠りこけている間も、あなたの心臓が働いているでしょう。死のうとしているときも、あなたの呼吸が出入りしているでしょう。
死なせてなるものか、頑張って生きてくれよとあなたの心臓を働かせ、あなたの呼吸を出入りさせてくれている。
その働きを仏さまというのです。そのほかのどこに仏があると思うのですか」
「勘違いしていたようだな」とつぶやくようにいって、電話の主は電話を切りました。
眠りこけている間も、自殺しようとしているときも、腹を立てているときも、笑いころげているときも、いついかなるときも私を生かしつづけてくださっている。
その働きを仏と呼びます。
ときに阿弥陀如来とお呼びしたり、ビルシャナ仏とお呼びしたり、観音さまとお呼びしたり、限りないお働きの、いろいろの角度から違った名前でお呼びするけれど、たった一つの、天地いっぱいのお働きを擬人化して名をつけたまでのことです。
気づく、気づかないにかかわらず、そのお働きのどまん中に、人間ばかりではない、すべてのものがいだかれ、その働きをいただいて生老病死しているのです。
民芸運動をされた柳宗悦(やなぎむねよし)さんの言葉に「ドコトテ ミ手ノ マナカナル」という言葉があります。
いつ、どこにあっても、仏の御手のどまん中での起き臥しであることを忘れてはなりません。
《「私のために、太陽が照り、雨が降る」気づく、気づかないにかかわらず、天地いっぱいのお働きがあなたを生かしつづけています。》
『泥があるから花は咲く』幻冬舎
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我々はつい、自分の力で生きていると勘違いしてしまう。
しかし、心臓も、内臓の働きも、呼吸も、命に係わるような大事なことは、自分の意思とは関係なく勝手に行われる。
心臓は1日に10万回も拍動(動いている)という。
それは、寝ている間も休みなく行われる。
それは、自分が命じて動いているわけではない。
つまり我々は、「生かされている」ということ。
このことは、色々なことでも言える。
たとえば、経営にしても、経営者はとかく、自分が経営していると思いがちだ。
しかし、体の働きと同じで、「経営をさせていただいている」ということ。
映画や舞台でいうなら、たまたま、経営者というお役をいただき、それを一所懸命演じているだけ。
その経営者を、社員や、その家族、取引先、金融機関、友人、知人、地域社会、そしてお客様が支えてくれている。
これは、経営者でなくても同じだ。
技術者でも、営業マンでも、サービススタッフでも、あるいは家庭において、父親や母親、子供…。
今世のこの舞台で、我々はそれらのお役をいただき、まわりの人々がそれを支えている。
「生かされている」ということは、それは「有り難し」ということ。
「有り難し」とは、有ることが難しい、奇跡のようなこと。
我々が生かされているのは、実は、奇跡のようなことなのだ。
「あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者があれほど生きたいと願った明日」(カシコギ)
我々は、等しく、誰もが「生かされている」…
「生かされている」という言葉の重みをかみしめたい。
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感謝❗感謝❗
🤔🤔🤔🤔🤔
この→→→感謝❗を忘れてる時ほど
子供に怒り過ぎたり、
嫁さんに暴言はいたり💦
😰😰😰
ただ、その時々で
どれだけ気づくか❗
気づいた時に、反省できるか❗
反省から→感謝に変えれるか☺️
最悪なのは、
気づいてた振りをする事😓😌
その時もちゃんと反省しなさいよ😠
「はい😓スミマセン💦」
まだまだな55歳です💦
今日も、ありがとうございました🙏